「ただ幸せにしたかっただけだったんだけどな」
その人は扉の前に立ち、そう呟いた。
大きいその体から、大きい手が伸びてきて、力強く力強く、僕の頭を撫でる。
ぬくも、り。
「俺には母さんを幸せにできなかった、」
ごめんな、□□。その声は僕には届かない。
「にげるの?」
そう問い返せば「ごめん。逃げる」と正直な解答。
嘘の得意な人であったのに、それが出来ないほど追い詰められていたのだろうか。
それとも、最後だから嘘でその場を誤魔化す必要などないということ、なのか。
「前に話したけど、俺は幸せな家庭とか――幸せな食卓とか、全然知らなかったから」
目の前にいる男の人は、本当の父親の顔を見たことが無い。
存命はしていたのだろうけれど、籍を置いていない。
俺の母親は多分妾か何かだったのだろうと、言った。
その男性の父親は七人いる。
僕の祖父は、七人足す一人で八人。
「だから俺は、幸せな家庭、作りたかったんだ」
「本当――父さんって」
その男性は。
僕が今まで見た中で一番不幸な人間は。
僕の、父親は。
「女運、悪いよね」
「かもな。家族運が悪いだけかもしれないけど――いや、やっぱ女運は悪くない」
「どうしてそう思うの、父さんの離婚遍歴見たらそうは、思え、ない」
「離婚遍歴とか、言うなよ。だってほら、あれだよ」
お前に会えたから運は良かったのさ、我が娘。
そんな風に、嘯いた。
PR