海、という物を見た。
別にそれがはじめての海だったとか、そういうわけではない。
自分は内陸にあり、確かに海とは縁遠かったのだが。
用兵として雇われ、各地に言った頃に、ふと眺めたことがある。
そして嗚呼、とその度思うのだ。
「スイスさん。綺麗ですね」
「そうであるか?」
日本は苦笑した。しかし奴は自分と違い海など見飽きているだろう、と思う。
決して綺麗ではないと思っている訳ではないのだ。
細波立つ海は、美しく、広大で、恐ろしく冷たそうだ。
それは幼少の頃より慣れ親しんだ、否苛まれ続けた、自然の象徴のようだった。
自らの足元が冷たくなるのを感じ、振り切るように海へと向かう。
上半身の服を脱ぎ捨てると、日本が慌てたような声を出した気がするが、聞こえない。
靴を脱ぎ、そのまま海へ踏み出すと、予想に違わず冷たかった。
恐怖に駆られそうになる自分を叱責し、前へと。
ずぶずぶと、押し込めるように自らの肢体は海へと吸収される。
すぐに立てなくなり、そのまま泳ぎだした。
海へともぐる、顔を上げる。空気を奪い、再び。
足に絡みつく服が邪魔だ、と思いながらも腕を動かし続け、ふと背泳ぎに切り替える。
太陽が眩しく、目を細めた。
ああ、海の上にも空はあるのだと――納得する。
「っ!」
足が硬直した。
筋肉が動かない――攣っている――気付いたもののどうにもできない。
飲み込まれそうになる。そうだ、自然は肝要で残酷なのだ。
何処までも受け入れてみせ、何処までも飲み込もうとする。
酸素が口から漏れていく。足は未だ動かないままだ。髪の毛で視界が見えない。重力から限りなく開放され、それでも落ちていく。海の色は、黒かった。時折下りてくる光が、愛おしい。
海の中で泣く事は出来ぬのだろうか。
ならばここも、さほど悪くはない。
体が抱きとめられる、感覚があった。
重力へと抗う体の動き。
空気の漏れる水音が、二つ不協和音を奏でる。
水を掻く音が――一つ。
「……っはぁ!」
「……………」
「スイスさん! 大丈夫ですかスイスさん!」
大丈夫である、と言おうとして――口の端から水が零れた。
「スイスさんっ」
目が霞んでいる――霞んでいるのに、日本の表情がわかる。
随分無様な表情だ、だが笑えない。
胸に僅かな圧迫感。応えるように心音を返す。
首筋に指が当たる、顎を反らされ、空気の供給が少し楽になる。
しかしそれ喜ぶ間もなく、唇から酸素が与えられた。
「……ケホ……ッ」
「スイスさん!」
「……大丈夫、であ、る」
起き上がる。足の攣りは既に終わっていたが、念の為にマッサージを行った。
「ふう……」
「馬鹿ですか貴方は!」
「!」
目を見開いて日本を見る。相変わらず、無様な表情をしていた。だけど矢張り――笑えない。
ああ、これは心配の表情だったのだ、と漸く気がつく。
「体操もせずに全力で海に泳ぎだす人がいますか! こちとら海の男ですからね、海の怖さは重々承知してるんですよ! ヨーロッパの方々は『よく自然は克服するもの』なんて嘯きますが、克服できないのに向かっていくのは馬鹿です!」
「……お前、そんなに自己主張出来たのであるな」
「誤魔化さないで下さい!」
「……悪かったのである」
剣幕が凄かったので、思わず謝った。
「少し――魔が差したのだ」
或いは海に魅せられたのか。
「全く……スイスさんがそこまで考えなしだとは思いませんでした」
「我輩も日本がそこまで怒るとは思わなかったがな」
「怒るに決まっているでしょう!」
「借りは返すぞ」
「そういう問題ではありません! 大体借りだとか貸しだとか――」
「とりあえず手始めに、先刻の酸素を返しておくのである」
「え?」
目の端で、海が揺れている。
誘うように、細波が引いていく。
ああ、だけどもう、誘われてなどやるものか――と、こっそり、ほくそ笑んだ。
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